おべんとう画用紙の取り組みを始めた浜松市根洗学園は、静岡県浜松市 にある療育施設です。発達が気になる子どもたちに対する療育活動を通 じて、社会性・集団性・様々な人間関係・コミュニケーションの発達を 促す取り組みを、家族ともになって実践しています。
目指す子ども像
・なんでも食べられる子
・自分のことは自分でできる子
・友だちとあそべる子
また外部の専門家の知見を取り入れることも積極的におこなっています。 福祉のさまざまな専門家を研修の講師やアドバイザーとして招き、学び やノウハウの研鑽に取り組むと共に、新たな気付きを得ています。その 一環として、2008 年からは美術家や音楽家などアーティストを迎え入れ た取り組みを始め、今では 10 年以上続いています。
これまでのアーティストたちとの取組をまとめた冊子「みえないものはなに?」をご覧いただけます。
平成 30 年度の取り組みをまとめた報告書をごらんいただけます。 巻末にアーティスト・イン・レジデンスのアーカイブ・レポート付き。
平成30年度事業まとめ
「療育とアートの混ざり合い」
~多様なコミュニケーションの形~
A4 44ページ
巻末付録
「柏木陽アーティスト・イン・レジデンス@根洗学園 2018 年報告書」
渡辺涼子
親たちの声から生まれ、幼児から高校生までが通える場所に
昭和49年
長い歴史の中で就学免除・就学猶予等の判断の元、学校に通えない子どもたちがいました。父や母・地域の声が行政と共に設立に動き、定員30名の根洗学園が生まれました。豊岡小学校の分校として1学級からのスタートとなりました。
その後、園舎も増築、運動場の拡張も行われ幼児部・中学部・高等部も設置され定員80名の学園となりました。
幼児だけの施設が生まれた
昭和54年
養護学校義務化に伴い人数の減少。3学級あった小学部が1学級になり、中学校は2学級の継続となりました。これまでいた場所からの転校。子どもたちは転校か残るかを選択し、最後の子どもが義務教育を終えるまで施設内学級(分校)は継続されました。80人定員であったものの、暫定定員制となり(その時の利用人数により定員を算定する)、子どもの人数分だけの職員配置となり、体制の不安定さと厳しさが生まれました。
また、養護学校の設立は、一方で、学園を利用する子どもの減少を意味します。
全国的にもこの時期、幼児を含む児童施設のまま存続するのか、義務教育終了後の子どもたちと共に成人の施設へ変更するのかの決断を求められることとなったのです。学園は、早期発見・早期療育視点に立つことを決め、児童施設としての存続を進めることとなりました。施設内学級も児童の進級と共に閉鎖され、56年には小学部、58年には中学部、平成元年には高等部が閉鎖されました。
知ってもらう支援の始まり
平成元年
幼児だけの学園としてスタートしました。根洗学園は子どもの施設ではありましたが、小さな子どもが通う場所の認識は全くありませんでした。まだまだ、「小さい子の施設だなんて!」という声も多く暫定定員が35名にまで減少した時もありました。幼児の施設ということを知っていただくために、保健師さんへの挨拶、関係機関への訪問、土曜教室として親子で遊びながら体験して理解していただく事業や、幼稚園や保育園に通いながら通う「子じかグループ」「親子での通園」事業等、子どもの状況に合わせた支援・利用方法を考え、実践していました。
「 発達の支援・家族の支援・地域の支援」の拠点として
平成11年~
施設種別名が「知的障害児通園施設」(平成11年)、「児童発達支援センター」(平成24年)と変更が続き、子どもを支援する場所としての役割が広く捉えられるようになりました。診断されていることが条件ではなく、気になり感や困り感がある状況からスタートでき、子育てを応援する場所に変わってきています。当たり前に必要な時に活用できる場所としての役割を果たす。支援を提供し、共に育ち合う場所として進んでいます。
現在、学園の事業は子どもの状況に合わせて利用できるよう園外にも拡大しています。
子ども・家族の生活を丸ごと支援する「毎日通園」の他、幼稚園や保育園に通いながら利用する「併行通園」。幼稚園や保育園に出向き、子どもそれぞれの状況に合わせ幼稚園や保育園の先生と連携しながら支援を進める「保育所等訪問支援事業」。地域の幼稚園、保育園からの要請により園の中で困っている子どもたちへの支援のヒントを一緒に考える「巡回訪問事業」。
地域の拠点として、地域を巻き込み、連携しながら支援を展開するソーシャルワーク的な要素を含んだ形へと、試行錯誤しながら進んでいます。