砂連尾:これは、この(2020年)3月以降考えてることなんですけれども。ご存じの通り、コロナでダンス業界はほとんどワークショップや公演が中止や延期になっている。それは舞台芸術が、箱モノでやるということに軸足を置き過ぎていたんじゃないか。ダンスは決してわれわれ市民のものになっていなかった、ということを痛感したんです。
一方で感染症の歴史を見ると、世界中に感染症にまつわるダンスがいっぱいあるんですよ。特に天然痘は人類の歴史において非常に大きな被害をもたらしたので、それにまつわる踊りというのはインドにもあるし、アフリカにも南米にもある。それは、生きているコミュニティーの中にダンスというものがきっちり存在していたということなんですよね。ところが今のコロナ渦では、ダンスが人々から隔離されてしまっている。
僕はもっと、人の生き死にのそばにダンスがあるべきだと思っているし、ありたいなと思う。こういうケアの文脈と、演劇やダンスや音楽といったものを切り離して考えるのではなく、根洗のようにもう少し混在している施設が増えるといいなと思うんです。でも現状は感染症が起こったことによって、その分断がより深まっている。本来であれば、今こそこういう場所にアート的なものがもっと必要なのに、リスクがあるからと引き離されてしまう。
そんなときに今、僕がアーティストとして提案できるのは……あの、一時期、松本先生が「一人ぐらいだったらアーティスト雇えるのよね」みたいなことを言っていましたよね。
松本:(笑)そう。職員として。
砂連尾:こういう現状に対して、たとえば職員として、ある時期は柏木さんや片岡さんが非常勤で学園にいるとか、川口さんが何かしらの形で常に関わっている、という形はあり得ないか。そうなれば根洗は劇場にもなり得るし、職員がダンサーにもなり得るし、演出家にもなり得る。
ーー砂連尾さんと根洗学園は、すごく親和性がある気がしますね。現場の先生たちの、身体だけじゃなく視線の使い方とかも含めた「動き」には、砂連尾さんがやっているダンスとの親和性があると思います。そこを分けているのは、ちょっともったいない。特にケアの対象となっている子どもたちにとっては、砂連尾さんがダンサーで、学園の先生が作業療法士だ、といったことは関係ないですよね。
砂連尾:これからの社会で、もっと有機的に役割を変えていけるようにならないと、こうした分断がもっと増えてしまう気がするんですよね。コロナが、そういうことをもう一歩つっこんで考えるきっかけになるといいんじゃないかなと思います。
たとえばオンラインでのコミュニケーションに切り替えることで、むしろ職員に(その場にいない)僕の代わりをどうやってもらうか。そんなふうに考えていくと、職員がダンサー化していくだろうな、という期待もあって。その辺のところは、もう少し考えていけると面白いなと思っているんですけど、どう? 片岡くん。
片岡:いや、あの、僕もそう思ってました(笑)。ほら、やっぱり「ここは施設です」とか「ここは老人ホームです」とか「ここは芸術劇場です」みたいなのって、もう、ちょっと違うんちゃうの? みたいな感じはしているんですよね。たぶん未来はそういうものが混在した状態にどうせなるので、早めにやりたいな、と思いますね。
ーー学園の先生たちが関心を持つか持たないか、という課題でもありますね。砂連尾さんが舞鶴でやったケースでも、高齢者の利用者さんとのワークショップをオンラインでやってみたら、そのパソコンを横で持って翻訳してくれる職員がいなきゃいけなかった。それが、その職員の参加になっているわけですよね。
片岡:なんかアーティストがいるって、アニマルセラピーみたいな感じだと思っていて。「鳥を飼ってる」みたいなのに近いというか。変なタイミングで鳴いたりしますよね、コケーとか。アーティストにワークショップとかを依頼するときにも「アニマルセラピーです」って言うと、アーティストはだいぶ楽になると思うんですよね。何かしなきゃいけないとか、何か伝えなきゃ、教えなきゃ、みたいな気負いがなくなる。とにかく来て、ずっと作品つくっているとか、ずっと演奏しているとか。アニマルでいてください、という。
砂連尾:でも、片岡さん、ほんとに犬の鳴き方、すごいうまいよね。
片岡:あ、犬の、はい、結構ね。動物の動きを研究してるんですね。僕の師匠がすごい、そういうことをいっぱいやられてですね。ハトとか、いろいろやるんですけど。いや、そういう意味じゃないですけど、アニマルセラピーって。
松本:(笑)療育の現場も、やっぱり職員が「職員」という鎧を着ちゃうと自然でいられない、その人になれない、みたいなところがあって。子どもたちの前に立つと、こうせねばとか、これはやっちゃいけないとか意識し過ぎて、うまくいかないとすごく落ち込んじゃう。でも本当だったら、子どもにとっては、生の、ひとりのキャラクターと出会えばいいだけなんですよね。子どもを主役として、その人らしく「いる」とか「たたずむ」ということができればいい。その人らしくいる、ということを誘発してくれる、見せてくれるという意味で、アーティストさんたちの存在は大きいなと感じます。
片岡:でもアーティストが特別自然体かというと、そうとも限らない気もしますけどね。結構、要らない責任感とか「ねばならない」が強くて、それでがんじがらめになっちゃう、というのはたぶん施設職員とかアーティストだとか関係なく、割と全人類的な問題のような気がします。
松本:そうそう。
野島:アーティストのみなさんが同じ空間にいる時、それを楽しいと思う先生もいないわけではないけれど、どうしていいのか分からなくなってしまう先生の方がまだまだ多いと思います。私たちはそれを面白いと受け取れるんですけど、他の職員はたぶん戸惑っちゃう。やっぱり正解・不正解みたいなことを考えちゃうんです。
溝口:そう。私たちは何を求められてるのかな、って。
片岡:学校でも、大人相手でも、「どうやらこの人、何にも求めてないらしい」って気づいてもらうのにちょっと時間がかかるんですよね。「適当に」とか言ってるけど、本当は何かこうしてほしいとか思ってるんじゃないか、と表情を探ってくる人もいたり。僕はあんまり気に留めないんで放っておくんですけど、そうすると「この人ほんとただのアホなんちゃうか」ってことにだんだん気付いてくるわけですよ。口で言っても伝わらないことだったりするから、ちょっと時間がかかるんです。
柏木:アニマルセラピーであれば、動物だから、きっとこっちの手伝いはしてくれないだろう、と思えるけど、人がいると何か期待しちゃうんでしょうね。
片岡:あるいは期待されていると感じてしまうとか、自分が。
柏木:うん。だからお互いに、なかなかアニマルセラピー的な了解が取れないっていうのはあると思いますね。そうすると改めて、砂連尾さんがお話された「ケアとアートが分断されてる」ということを思い出しますよね。本当はお互いに支え合える領域のはずなんだけど、それが今実現してない。だったら、どういう形なら支え合っていけるのか実験するために、月1とか週1という単位で入っていくのはいいかもしれない。たとえば実験として、片岡さんが来てただ太鼓を叩いている日があったり、砂連尾さんが面白いと思う先生たちの動きをピックアップしてダンス作品にしていく日があったり。それを見た先生たちが「私たちこんなことしてた?」って自分たち自身に対して発見があったりすると、そこから変化が起こっていくかもしれない。
砂連尾:今のこの、Zoomでしか会えない状況では、逆に、現地にいる職員の人たちに手伝ってもらわなきゃいけない。それを一度、練習してみるのもいいんじゃないか。先日も、野島さんと松本先生とでちょっとやってみたんですけども、例えば僕が画面の向こう側にいる溝口さんに向かって「じゃあ溝口さん、ちょっと手と手を合わせましょう」と言っても、絶対に合わないじゃないですか。合わない代わりに、隣にいる職員の野島さんに「僕の手の代わりに溝口さんと手を合わせて」とお願いする。でも、ただ合わせるんじゃなくて「ちょっとその手を、ほっぺたからゆっくりこうやって相手のおでこに付けて」とか。そこまでいくと、僕の体はちょっと震えるんですよね(笑)。
こういうことって、野島さんの体がなければできないんです。一方で、野島さんにとっては「私がいないと砂連尾さんのワークは成立しない」という意識になる。この距離感がむしろ対等性を生んでいくということは、あり得るんじゃないか。どうしてもアーティストがその場に行くと、無意識に役割やポジションが決まってしまう。もちろんその場にいることの良さはあるけれど、職員の皆さんにとっては「アーティストのアシストをしなきゃいけないんじゃないか」とか「邪魔をしてはいけないんじゃないか」という意識を働かせてしまう、働き合ってしまう。
そこをいったん仕切り直して、一緒にワークを遂行していく上での協働関係というところからスタートしたらいいんじゃないか。というのも大学でも授業をオンラインでやっているんですが、ダンス初心者の学生たちは、オンラインだからこそ緊張しないでやれている面があるようなんですよね。僕はダンスをもっと開いていきたいと思ってやっていたのに、やっぱり対面って意外と人の圧があるんだなと感じて。その圧によって動けなくなる人とか、人との接触がやっぱりちょっと苦手な人とか、オンラインだからこそ出会える身体というものがあるな、と。そう思ったときに、次のワークショップを考えていくためのクッションとして、Zoomを使ったオンラインでのワークがそういった協働、アートとケアとを分断しない、手を結ばざるを得ない、そういった練習になるんじゃないかと思っているんです。
片岡:僕も同じこと思ってたんですよ(笑)。あれですよね、身代金の受け渡しとかでそういうのあるじゃないですか。電話かかってきて「右側に何か見えるだろう」って。ああいう感じ?
砂連尾:ああ、そうそう。
川口:そうそう(笑)。
片岡:それは、音楽でもできると思いましたね。子どもと1対1とか1対2ぐらいのセッションというか、音遊びをしてるとしますね。職員さんの誰かがイヤホンをちょっと付けてですね、僕が「そこの木琴に替えてみたら?」とか「太鼓でリズム叩いてみたら?」「子どものあの音をちょっとまねしてみたら?」とか、そういうおせっかいを言う。二人羽織演奏みたいな。
砂連尾:そうですね。
片岡:「リズムを刻みましょう」ぐらいの指示だから、受け取る人によって解釈が違ったり、誤解が生まれたり。でも僕のほうも「そんなに速いテンポのつもりじゃなかったけど、それもいいな」と思ったり。そういう、指令を出すというのは面白いんじゃないかなと思いました。
砂連尾:その場に片岡さんがいたら自分でやっちゃうようなことを、別の人にやってもらう。そこで誤訳が生まれることをむしろ楽しむ。
片岡:音楽の面白さって誤訳の楽しさみたいなもんですからね。楽譜を書いた人が「そんなつもりじゃないんだけど」っていう演奏をするんですよね、演奏家が。でも、それで面白くなったりするわけですから。
柏木:実際その場に僕らがいると、職員の方々が自分の存在をゼロにしていっちゃうんです。だけど、こうやってリモートの環境になって、もし僕の手伝いをしてもらうことになったら、職員の皆さんにやってもらわないと絶対的にどうにもならないわけで。そういった形でリモートが、より濃く関わっていくための装置になるというのはすごく面白いなと思います。ある種、憑依(ひょうい)するしかなくなるわけですよね。
画面の向こうの砂連尾さんの言うことを聞きつつ、見つつ「こっちじゃない、これね」みたいなことを対象の人と一緒にやる。「これはどうなのかしら」と画面を見ると砂連尾さんが震えていて(笑)、「これが震えるのね」みたいなことを発見していく。砂連尾さんは「次のワークショップを考えていくためのクッション」とおっしゃいましたけど、それだけでも面白い状況かもしれない。
砂連尾:この数年間、たとえば根洗の子どもたちと直接関わることは、かなりやってきたと思うんです。でも職員の人たちが僕らがいなかったときにどう関わるのかというと、なかなか難しい問題だとずっと思っていて。でも、今回こういう状況で関わらざるを得ない、むしろメディウムになって遊べたりもする存在として、現地の職員の人たちが関わっていく。それって、僕らがいなくても(アーティストがワークショップを通じて提供するものを)どんどん自分たちのものにしていく、というエクササイズにもなる。そういうフェーズとして捉えると、今のこの状況っていうのは悪くないんじゃないかなと、すごく思います。
ーーイタコみたいなことですね、憑依。先生たちがイタコになって、実際には霊はイヤホンを通じて降ろしているんだけども、だんだんイヤホンがなくてもやれるようになったりして。すごい詐欺師のイタコみたいなことになるわけですね(笑)。
砂連尾:いやもう、ほんとにダンサーの根源的なあれですよ。
片岡:演奏の習得も、やっぱイタコなんですよね。もうジミー・ヘンドリックスのつもりでやってるうちに、気付いたら、なにか自分のものになっていく、みたいなことがあって。
柏木:要するに「見て学ぶ」って古臭いものに思われているけど、そうじゃなくて、どこに目を付けているのか、というのはその人の特徴ですよね。真似ができないことの中に専門性みたいなものが凝縮して見えてきたりする一方で、結局それが他のいろいろなものの中に敷衍(ふえん)されていかないから、特殊性で終わっちゃう。逆にこちら側からそれを敷衍していくことによって、学園の先生たちはもちろん、学校の先生、お医者さん、看護師さん、そういったお仕事の現場で行われていることを、もっと違う視点に持っていくことが可能なんじゃないか。
ーー「真似」から学ぶことがとても多い、ということですね。例えば現場で先輩の先生たちがやっていることを、自分も真似してやってみる。でもうまくいかないな、何でだろうと、その先輩がやっていることをもっと観察してみたら「あそこで目線をちょっとずらすんだ」とか「あれが効いてるんだ」ということに気がつける。逆にいえば、真似せずに見ているだけだと気づけないことがある。
川口:俺たちは多少不自由なことってどうにか楽しんできたじゃないですか。だからその辺は何とかなりそうな気がしてて。それなりに面白がれそうな気がする。
片岡:困りたい、みたいな。
川口:困りたい。ああ、もどかしがりたい、みたいなとこがあるじゃないですか。
片岡:分かる、分かる。
川口:あと、やっぱりアーティストの「この人たち、こういうことまで面白がるんだ」という視点。たとえば子どもたちのある動きに対して、先生たちは普段スルーしてるけど、アーティストが見ると楽しくて、面白くてしょうがない、みたいなことがあったりする。ワークショップでも、寝たきりのおじいちゃんの呼吸にカリンバを合わせていく片岡さんとか。ああいうのを見て、やっぱり職員がハッとしたり、次からもっと注視して感じようとしたり、という学びにもつながった。どうすればそういうものを拾えるのか、ということが先生たちに見えていくと、すごくいいフィードバックになる。たとえばZoomで動画を一緒に見て「ここ面白くない?」ってただ言い合うだけの場とか。
ーーアーティストの存在や視点を、学園の日常の中にどうやって位置づけし直すのか、ということですね。もちろん先生たち全員がみんな面白がれるわけじゃない、混乱してしまう可能性もある。「日常」と言ったときに、片岡さんや柏木さんを臨時職員と呼ぶのか、それも変じゃないか、とか。その受け皿をどういうふうにつくるのか、また施設に足を運べるようになるまでの間に、考えていく必要がある。でもその前の段階として、先生たちをイタコとしてアーティストが遠隔で関わることは今年度から始められそうですよね。
砂連尾:ただ、やっぱり今コロナで、女性の人たちがかなり家庭の中に閉じ込められているという状況はある。だから母親向けワークショップがまったく無くなるのは残念ですね。子どもをひとりで見なきゃいけないとか、そういうストレスを抱えているお母さん方に対しても何かしら、一緒にやれることを考えていただけたらな、とは思います。
柏木:母親向けワークショップ、イタコ版とかやってもいいんだと思うのよ。お母さんたちが、どういう形でワークショップを受けられるのか、という状況も全然違ってきていると思う。「リモートだったら参加できます」という人もいれば「いやいや、少しでも家から出たいんです」という人だっているでしょうし。それぞれ事情が違うと思うので。
片岡:前回と同じようなチラシで告知して、「イタコ編」って付けたらいいんじゃないですかね。
柏木:いい(笑)。何の話? って見て、リモートか!と分かるとか。
ーー最後に、座談会を聞いていただいていた職員の皆さん、いかがでしたか? 少し感想を聞かせていただければ。
大橋:ありがとうございました。本当に有意義な時間でした。この2時間が、僕にとっては立派なワークショップでしたね。いや、面白かった。僕、今年はもう(ワークショップ実施を)諦めなきゃいけないな、と思っていたのが、この2時間ですっかり変わってしまって。やっぱりやりたいな、リモートでも、という気持ちになりました。ぜひまたお力を貸していただければ嬉しいです。いい時間でした。
野島:個人的には、イタコがすごく面白そうなんですけど(笑)今、職員たちの課題としては、子どもの見守りとか、けがさせないように、トラブルを起こさないようことが中心になり過ぎているんですね。でも遊びを展開するとか、一緒に遊ぶといったことが、もっともっとできるといいなって。それを、先生たちがイタコをやることで自分が体を動かすように変わっていくと、また違った面も見られて面白いんじゃないかと思います。
溝口:ありがとうございました。溝口も同じくワクワク(笑)し始めているところですけれども、やっぱり課題になるのが他の職員の巻き込み方なんですね。どうしても個人個人で感じ方は違うので、まあ無理にとは言わない、でもできたらちょっと知ってほしい。その兼ね合いだな、と感じています。
ーー課題もありますが、こんな状況だからこそできるワークショップの可能性が見えてきてよかったです。引き続きお付き合いください、よろしくお願いいたします。今日はどうもありがとうございました。
一同:ありがとうございました!